ボク的な『僕ノ町』
2021年11月20日 / Topics
前回の投稿で津島修治少年がローカリズム主義者(郷土偏愛主義者)だってことがよくわかっただろう。
こうした少年時代の感性が後の太宰治の原点だ。
今日は競馬場の写真の場所にはもう一つの「記憶」があるって話をしよう。
現在の金木高校の上にはかつて芦野競馬場があり、競馬場の門前は坂道だ。
この坂道で今を時めく三浦雄一郎氏がスキーの練習をしていたのだ。
金木高校や隣の金木中学校は津軽半島最大の「金木営林署貯木場」だった。
金木には青森営林局の研修所があり、所長として三浦敬三氏(雄一郎の父)が家族で赴任していた。
ここからが金木スキー史の始まりだ。
青森市出身の三浦敬三氏は昭和2年に北海道帝国大学を出て青森営林局に入局し、以後は日本のスキー史にとって燦然と輝く巨星である。
自らも競技選手であり青森林友スキー部を率いて数々の名選手を育成した。
驚くことに初めはジャンプ競技の選手だったのだ。
こうしたことから、金木には早くからスキー文化が定着し、ノルディック、アルペン、ともに数多の名選手を輩出して今に続いている。
また三浦敬三氏は八甲田山岳スキーの開拓者であり、金木の屈強な若者たちをルート開拓に伴い、ガイドとして育成し今にある。
競馬場の坂、嘉瀬観音山のスロープ、
これこそが別の意味での誇るべき『僕ノ町』である。
かつての貯木場跡地。津軽森林鉄道で大量のヒバが運び込まれていた。
スキー大国と言われていた青森県であるが、今は嘉瀬スキー場でしかジャンプ選手の育成が行われていない。その昔、三浦敬三先生はノルディックもアルペンもこなすオールラウンダーを育成していたのだ。