傍島家紹介
かなぎ元気村「傍島家」紹介
旧傍島(そばじま)家は現在、かなぎ元気村『かだるべぇ』としてリフォームされ、
青森県五所川原市金木地区の昔ながらの生活や文化、地域の伝統技術や自然環境を体験できる交流施設となっています。
傍島家とは?
津軽藩祖為信公の家臣にして、為信津軽統一の平定作戦には各地の城攻に軍忠を尽くし、慶長5年9月の関ヶ原の戦いに 徳川方に味方した為信に従った傍島正澄は、大垣城攻略に際し際立った軍功をあげている。傍島家はその後、幕末に 亘り津軽藩の学者として学問所を預かり、代々文武両道をもって津軽藩に尽くした家柄である。(『金木郷土史』より)
旧傍島家住宅
金木町蒔田に現存する「旧傍島家住宅」は建築年が明治4(1871)年と、旧津島家住宅(現太宰治記念館)よりも さらに古い上、旧士族であり、旧津島家とは姻戚であることからも、包括的な文化価値が高く、是非保存・活用すべき 建物であると判断されます。
傍島家と津島家
明治6年、現在地に生まれた傍島柾之助氏は東奥義塾高等学校を経て東京法律学校を卒業し、金木村役場書記を皮切りに 北津軽郡会議員、県議会議員を長きに亘って務めました。
旧津島家とは、子息正守氏のもとに津島修治(太宰治)の従姉、ふみが嫁いだことによって縁戚となり、 当主津島源右衛門氏とは極めて親しい間柄となりました。
さらに、子息正守氏は教育者として津島修治(太宰治)の恩師であり、よき理解者でもありました。現在地 には太宰自身がよく遊びに行っていたそうです。
傍島家は親子二代にわたり、津島家の身代や源右衛門氏と長男文治氏の政治活動を支え、津島家が創設した 金木銀行頭取としても地域経済の振興に尽力しました。