
一般社団法人 かなぎ元気村 メールマガジン3月号
かなぎ元気村通信 | 一般社団法人 かなぎ元気村 メールマガジン3月号
3月25日は東京で桜の開花が宣言されました。昔から言うように「暑さ寒さも彼岸まで」というのは確かにその通りかもしれません。
このところ静かな星の夜に外に出てぼんやりしていると上空から渡り鳥の声が聞こえます。つい数日前まで雪解けの田んぼに群れていた雁や白鳥たちがいよいよ夜を徹して遠い故郷へ飛び立ちました。3月10日に元気村のフェイスブックで外ヶ浜地域に伝わる「雁風呂」の悲話について書きましたが、こうした渡り鳥の北帰行は北国に暮らす私どもにとって別れの春を象徴する光景のように思います。
太宰治が師と仰いだ井伏鱒二は唐代の漢詩を訳すにあたり、「花発多風雨 人生足別離」花が咲くと 雨が降ったり風が吹いたりするもので、人生に 別離はつきものだと訳すべきところを、ハナニアラシノタトヘモアルゾ「サヨナラ」ダケガ人生ダ、という妙訳をしています。何かにつけて井伏を頼っていた太宰治は未完の遺作「グッド・バイ」の中でこの言葉を引用していますので、太宰の言葉だと思われている方も多いようですね。 「さよならだけが人生だ」という言葉の捉え方にしても「惜別」なのか「一期一会」なのかに別れるようですが、さて皆様の人生にとってはどちらでしょうか。
一般社団法人かなぎ元気村では、みなさんのそばにいつも『かなぎ元気村』ということでメルマガを配信しています。今月も奥津軽の小タヌキのコラムやクマのぼやきをお楽しみください。
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【目次】
1.エールを送る
2.シリーズ「記憶の断片」その12
3.ウェルネスコラム第29回
「「んみゃーち」(お帰り)宮古島さるかの里」
4.あとがき
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1.エールを送る
「一意専心」という言葉がありますが、他に心を向けず、一つの物事に集中している人たちは少ないながらも確かにいます。自分が思うところの価値観、生き方、進路など、人生はなかなか思い通りにはなりませんが、そんな中で津軽民謡を志して他県から15歳で単身移住し、青森県民謡王座、民謡民舞全国大会内閣総理大臣賞、東奥文化選奨など数々のタイトルに輝いた女性民謡歌手がいます。また、同じく他県から津軽に移住し、民謡王座のタイトルや津軽三味線奏者として第一線で活躍している方々を見ていると津軽衆として深く感謝し、心からエールを送りたくなるのは私だけではないでしょう。つい先日の民謡王座決定戦のテレビ放送を見ていますと、この人たちは自分の事だけではなく、志のある子供たちを他県からもどんどん受け入れ、正しい普及活動をして素晴らしい成果を上げています。「青森県が誇る民謡、三味線、手踊りを次世代へ伝えて行けるよう精進したい」との決意を聞いて、もう「涙のあっぱれ」を差し上げるしかありません。
私はかつて津軽民謡の歴史文化を伝える仕事に携わっていたことで、全国の師匠やお弟子さんたちと少なからず交流がありました。津軽と金木を媒体に心をつないだ人たちに思いをはせて命ある限りエールを送り続けます。
エールついでにもう一つ。4月10日は下北半島佐井村において福浦歌舞伎定期公演が行われます。ここには親愛なる人々の変わらぬ心意気があり、現代社会が見失いつつある素朴な人間模様があります。今年は幕間のゲストとして津軽民謡の新進気鋭の若者たちが招かれました。この若者たちならば津軽の民謡魂を存分に発揮するはずです。今年も満員御礼間違いなしですね。地理的に極端に遠いですが行く価値はありますよ。
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2.シリーズ「記憶の断片」その12
個人的な話で恐縮ですが伝えておきたいことがあります。実は、当家には不思議な石が2つあります。2つともちょうど手の平に握れるサイズで、角は全くなくつるりと丸みを帯びており、色は茶色と黒、年輪と思しき模様が浮き出ていますので素人目にも木の化石だとわかります。どちらにも亡き祖父の筆で「昭和三十二年八月二十八日 秋元万九郎ヨリ贈ラル」と書かれています。このことについて生前の母に聞いたことがあるのですが、私の本家は明治時代から製材業をしていて、祖父は事務方をしていました。母によると秋元万九郎という人は当家の製材所に勤めていた人で、元気村に近い川向こうの西津軽繁田村から金木まで毎日歩いて通っていたそうです。祖父とは歳が近くて親しい間柄だったようで、その秋元氏によると、この石は親しい三味線弾きから預かったもので、その三味線弾きが言うには、自分が大切にしているものだが、旅回りで重いものは持ち歩けないのでお前に預けると託したのだそうです。そしてそれを託された秋元氏はどういう事情なのか、私の祖父にその石を託したのだそうです。それが我が家に残る二つの石です。
母の話はここまでで、かなり謎めいていますが、その秋元氏が金木まで通う道の途中には神原村、蒔田村、不動林村があり、津軽三味線の始祖秋元仁太郎(通称 神原の仁太坊)とその最後の弟子である津軽三味線の神様白川軍八郎の実家も道沿いにあります。秋元仁太郎は安政4年生まれで昭和3年に亡くなっているので、秋元氏の少年期の記憶に残ってはいても直接のつながりは考え難いし、仁太坊は旅回りをしていません。一方で明治42年生まれの白川軍八郎と秋元氏はおそらく同い年か親しい間柄だったと思います。当時は川向の繁田村も不動林村も蒔田尋常小学校の学区ですし、となれば、秋元氏に謎の石を預けた旅回りの三味線弾きは白川軍八郎であり、軍八郎が大切にしていた謎の石は師匠である秋元仁太郎の遺品だった可能性が高いわけです。その石の中央には横一線に溝が刻まれており、周りは磨かれているようにつるりとしています。この石を名うての三味線弾き三人に見てもらったところ、昔から鼈甲撥は高価なものだったので三味線弾きは木撥を自作していて、横一線の溝はおそらく自作の木撥を研ぐためのもの、全体の丸みは三味線の竿を滑らかに磨くためのもの、という共通の見解を得ました。確たる証明は何もありませんが、三味線弾きの使い道としてはその通りであろうと思います。
初代白川軍八郎は陸奥の家演芸団のエースとして巡業の日々を重ね、昭和32年2月18日には松村一郎一座の興行で金木劇場の舞台に立っていて、祖父が謎の石を託されたのが同年8月28日です。初代白川軍八郎は昭和37年5月18日に亡くなっていますが、最後まで愛用していた三味線は秋田県潟上市に現存していることが判明し、2012年10月13日に所有者から寄贈を受けて故郷金木の津軽三味線会館に展示しています。こうした心温まる経緯で秋田の人達には深いご恩があり、ご尽力いただいた方々を生涯忘れることはありません。
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3. ウェルネスコラム第29回
「「んみゃーち」(お帰り)宮古島さるかの里」
(一社)かなぎ元気村の理事木谷敏雄(通称奥津軽の小タヌキ)が「日本各地のウェルネス地域の探訪」を綴ります。この小タヌキは、日本各地のウェルネスツーリズムや最近でいうWell-Beingツーリズムによる観光地域づくりの感動請負人(コーディネーター)として各地を飛び回っていて、そこそこ活躍しているらしい(笑)そんな小タヌキのウェルネス地域探訪にお付き合いください。
※ウェルネスコラムはこちら
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4.あとがき
最近とても腹が立ったニュースがあります。それは全国の名峰の標高がこの4月1日から訂正されるということです。GPSによる高度な測定に因る成果だと言っていますが、はて?今さらそうすることで何のメリットがあるのだろうか。自分たちの心象風景であり故郷の象徴でもある岩木山や八甲田大岳の標高が1m低く訂正されることで今後様々な媒体の廃棄や作り直しが生じて大変なお金がかかるわけで、それで得することなど何一つありません。こんなことをテクノロジーの成果だとして無駄金を浪費するよりもっと大切なことが山ほどあるだろうと私は怒りに燃えているわけです。津軽衆にとって岩木山は永遠に標高1,625mで、八甲田大岳は1,585mです。
余計な話ですが、「こころ旅」の火野正平が、番組で自分の三大山は「利尻富士」「開聞岳」「岩木山」だと言ってました。こういうのは嬉しいですね。人生下り坂最高って言ってたオッサンがいなくなってしまったのは本当に寂しいです。
さて、私は「さよならだけが人生だ」については、もっぱら寺山修司の言葉を推しています。
さよならだけが人生ならば また来る春は何だろう
はるかなはるかな地の果てに 咲いている野の百合何だろう
さよならだけが人生ならば めぐり会う日は何だろう
やさしいやさしい夕焼と ふたりの愛は何だろう
さよならだけが人生ならば 建てた我が家なんだろう
さみしいさみしい平原に ともす灯りは何だろう
さよならだけが人生ならば 人生なんかいりません
どうでしょう? 青森県が生んだダブルシュウジ、津島修治(太宰治)と寺山修司。
あなたはどっち推しですか?
間もなく桜花爛漫の春が来ます。今年のゴールデンウィークは新緑になりそうですから積極的に野山へ出かけましょう。皆様、4月も息災でお過ごし下さい。
2025.3.27